平成懐徳堂

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中島敦『悟浄出世』/公案、世界観、内村光良

 ふと何かしらの物事について、自分だけがこれを疑問に思っているんじゃないか、と考えることがある。これは僕個人の経験を語っているのではなくて、一般論と確信した上で言っているのだ。得てして辞書やGoogleに頼ってみても解決しないような、だけどそれ以上追求するほどでもないような。そういう種類の疑問が、間違いなく僕らの周りには存在している。あるでしょう、そうでしょう。

 

 そこで追求を止めない男の姿を、中島敦は描いた。それが『悟浄出世』の悟浄だ
 悟浄は「自分」というものに疑問を持ち、答えを求めてあらゆる賢人に教えを請う。しかし肩透かしの連続で、彼を納得させる答えは返ってこない。ある賢人曰く、「長く食を得ぬ時に空腹を覚えるものが儞(おまえ)じゃ。冬になって寒さを感ずるものが儞じゃ」。またある賢人曰く、「先ず吼えて見ろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら鵞鳥(がちょう)じゃ」。この辺りはあたかも公案のようで、コメディタッチなのだが中々味わい深い。

 

 こんなやりとりが繰り返されると、禅僧でもない悟浄は、賢人たちに対して次第に不満を募らせてゆく。以下引用。

最早誰にも道を聞くまいぞと、渠は思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな」と悟浄は独言を云いながら帰途についた。「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束の下にみんな生きているらしいぞ。斯ういう約束が既に在るのだとすれば、それを今更、解らない解らないと云って騒ぎ立てる俺は、何という気の利かない困りものだろう。全く。」(『中島敦全集2』ちくま文庫 1993、140頁。)

 悟浄が自ら語る通り、彼はまるで気の利かない、子供のような男なのだ。「なんでなんで」を繰り返すばかりで暗黙の了解を知らない。そして知る知らないに関わらず、不文律を破れば報復を受けるのが世の常である。悟浄は天界の声に従って、苦しい旅に赴くことになる。その旅というのが、孫悟空三蔵法師と連れ合う所謂『西遊記』である。*1

 

 本作品の根底に流れるのは、疑問に立ち向かうことに伴うリスクの存在である。しばしば見逃されがちではあるけれど、みんな心の何処かでおそらく経験的に、このリスクを理解している。 
 「外国を旅したら、世界観が変わった!」に違和を感じるとしたら、要因の一端はここにあるんじゃないかと思う。旅じゃなくても、この本を読んだらとかこの映画を見たらでも同じように、世界観が変わるほどのリスクがそこにあったのか?その程度のリスクで変わる程度の世界観だったのではないか?大事なところが欠けている。
 対して悟浄は、全てを抛ってひたすらに世界観を変化させようとしているのだ。なんて馬鹿な奴だと後ろ指を指されることも厭わないし、一言の諫言を五十日間座り続けて待ちもする。本来、こういうことなのだ。

 僕はいつの間にか、世の中に蔓延る不文律を(たぶん、だいたい)理解してしまったし、リスクを被ってまでそれを破ろうとも思わない。だけど疑問に立ち向かいたい、という幼心は残っている。だから悟浄にその思いを仮託して、ああ、青春だなあとしみじみするのです。

 ちなみに僕は、沙悟浄といえば内村光良*2派。

*1:この旅は『悟浄出世』の続編である『悟浄歎異』で描かれる。中島は二編を合わせて「わが西遊記」としている。

*2:尊敬しています。特に顔芸。